誰もが陥りかねない「他人を許せない」状態
正義中毒とは?
「清純派キャラの女性タレントが不倫をしていた」。「大企業がCMで差別的な表現をした」。こうした状況は、自分や身近な人が直接不利益を受けたわけではない。だが、面識もない相手に攻撃的な言葉をあびせ、叩きのめさずにはいられない。そんな状態に陥っているとしたら、それは、正義におぼれ、「許せない」が暴走してしまっている状態だ。著者はこれを「正義中毒」と呼ぶ。
正義中毒は誰しもが簡単に陥る可能性がある。とりわけ、ネットやSNSの世界では顕著だ。SNSの広がりが正義中毒を顕在化させ、より強めている。
また、自らの正義をふりかざす快感を味わいつつも、同時にそんな自分を許せないと感じている人も多い。このような相反する感情に苦しめられていては、とても幸せな状態とはいえないだろう。
多様性を狭めた集団は滅亡に向かう
しかし、社会全体でこうした流れに乗り、多様性を狭めてしまうことは、非常に危険である。多様性を狭めることで、短期的には生産性や出生率が上がる。しかし、進化の歴史で見ると滅亡に向かってしまう。たとえば、ある企業では、強引かつ話術の巧みな営業担当者が好成績をあげているため、そうした人材ばかりを集めているとする。だが、ある日規制が強化され、そのような営業ができなくなったとしよう。その企業に、一人でも温厚でロジカルな営業担当者がいれば、営業活動を続けられる。だが、そうした人材の多様性がない場合、その企業は厳しい局面を迎えることになるだろう。
日本社会の特殊性と「正義」の関係
愚かさの基準は国によって異なる
正義中毒は、どこの国のどんな人でもなり得るものだ。しかし、どんな人を逸脱者(愚か)とするかという基準は、国や地域によって大きく異なる。
たとえば日本では、「みんなに合わせられないこと」「みんなと違う行動をすること」が愚かだと考えられる傾向にある。これに対して、著者が滞在していたフランスでは、「みんなと同じこと」や「自分の意見をいわないこと」が愚かだと捉えられがちであったという。
自然災害と閉鎖的環境による影響
日本は長い間自然災害に悩まされてきた。そのため、そうした環境に適応できるよう、長期的な予測をして準備を怠らない人たちが生き残ったと考えるのが自然である。
また災害時には、みんなで助け合って復興をめざす以外の方法はない。集団への協力を拒んだり了解事項を裏切ったりすれば、その人物は非難と攻撃の対象となってしまう。このような背景から、日本では、個人の意思よりも集団の目的を最優先するようになっていった。集団の考え方に背くことは社会全体に危機をもたらす恐れがあるとして、無意識に集団主義的思考を採用していたのだろう。
【必読ポイント!】 なぜ、人は人を許せなくなってしまうのか
人間の脳は対立するようにできている
自分と異なるものをなかなか理解できず、互いを「許せない」と感じてしまう正義中毒は、人間の宿命といえる。ただし、人間の脳の仕組みを知っていれば、こうした生きづらさを少しでも解消できるようになる。
そもそも人間の脳は誰かと対立するようにできている。ささいなきっかけで相手をバカだと感じてしまうことは人間の特徴なのだ。
また、長い時間をかけて徐々に他人を許せなくなることもある。その典型としてあげられるのが、「性格の不一致」による離婚だ。彼らは出会った当初は惹かれ合ったわけだが、その理由も、脳科学的には「互いが不一致だから」こそである。
にもかかわらず、結婚後にその不一致を憎むようになってしまうのはなぜなのか。その理由として有力なのは、恋人だった頃より互いの距離感が近くなってしまったことである。いくら夫婦でも、適切な距離や愛着のレベルが存在する。そこに過不足があると、途端に不一致が粗として感じられるようになってしまうのだ。
バイアスは脳の手抜き
人間は誰しも、集団内の仲間を外の人よりも良いと感じる「内集団バイアス」をもっている。そして、グループ外の集団には、バカなどというレッテルを簡単に貼り付けてしまう。たとえば、サッカーの試合で日本チームが失点をすると喜ぶ韓国人、ドイツチームの失点を喜ぶフランス人などだ。みな、悪意をもっているというよりは、ただ脳が手抜きをして、バイアスに乗っ取られている状態にすぎない。この状態における脳の処理は、自動的に生じる楽な処理、すなわち一元的な処理である。
グループ外の人々を一元的に処理できるということは、脳がかける労力が少なく、コストパフォーマンスが高い行為である。本来なら、一人ひとりの背景や考え方を考慮に入れて、丁寧に判断するべきだ。しかし、この内集団バイアスが働くと、手間をかけずに一刀両断できるのである。
このやり方は迅速な判断が必要なときに非常に便利であるが、脳がいわば「ズル」をしている状態なのだ。
脳は賢くなりすぎないようにできている
人間が人間であり続けるため、脳は前頭前野に従いすぎないようになっている。つまり、脳は「賢くなり過ぎない」ように設計されているといえる。
たとえば、女性と出産の関係について考えてみよう。出産という行為はリスクを伴うことなので、女性が自身の生命維持を最優先させるならば、出産を選択しない方がよいだろう。だが、それでは種としての人間が絶えてしまう。そのため、前頭前野ではコントロールできないような、愛情や性欲、子どもへの愛着が強くなるよう仕組まれているのだ。
記憶力も同様である。完璧に記憶でき、起きたことを忘れない脳をもつ人がいたとしたら、その人は嫌な思い出を忘れることもできず、都合良く記憶を書き換えることもできない。そのため、非常につらい人生を送ることになるだろう。記憶が徐々に消え、都合良く記憶を書き換える仕組みが存在するのは、より良く生きていくためには自然であり、当たり前のことだといえる。
正義中毒のエクスタシーと苦悩
一方、正義中毒にかかっていても、我が身を振り返り、「自分の方が本当は間違っているのではないか」と苦悩するなど、矛盾した感情を抱くことがあるかもしれない。これも脳の機能の一部である。他者を攻撃することで、脳がネガティブフィードバックを受けることがある。ここでのネガティブフィードバックとは、怒りや攻撃性を誘発するホルモンの分泌を抑えることを指す。
著者は、こうした相反する感情が人間の脳に同居しうる科学的な理由を断定できないと語る。だが、有力な仮説の1つはこうだ。一人の個人のなかに多様な価値観が共存することが、環境の急激な変化や新しい価値の台頭に、一世代で対応できる可能性をもたらすという解釈である。
正義中毒から自分を解放する
正義中毒を乗り越えるカギは「メタ認知」にあり
本書の最終章では、「人を許せない」状態から解放されるための科学的な方法や脳の鍛え方について考察している。
脳は加齢によって衰えていく。老化によって前頭前野の働きが衰えると、どうしても新しいものを受け入れにくくなってしまう。
前頭前野は分析的思考や客観的思考を行う場所であり、人を「許す」ための大きな足がかりとなる。前頭前野がうまく働いていれば、日頃から固定化された通念や偏見を鵜吞みにせず、「メタ認知」を使うことができる。メタ認知とは、自分自身を客観的に認知する能力を意味する。つまり、「自分がこういう気持ちでいることを自覚している」ということである。このメタ認知を働かせることが、前頭前野を鍛えることにつながり、正義中毒を乗り越えるのに役立つのだ。
老けない脳をつくるトレーニング
1つめは、「慣れていることをやめて新しい体験をする」ことだ。たとえば、「通勤で自宅から駅まで向かうとき、いつもと違うルートを歩く」「外食の際に、新しいメニューにしてみる」など、些細なことでかまわない。日常とは異なる行動が前頭前野の活性化を促してくれる。
2つめは、「あえて不安定・過酷な環境に身を置く」ことである。そうすれば、自分の思考や行動を認識し直すことができる。たとえば、「普段なら絶対読まない本、関心のない本を読んでみる」「ネットで興味のないニュースなどを閲覧する」といったことでも、異なる環境に身を置くのと同じような体験を手軽に味わえる。
3つめは、「安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない」ことだ。「Aは○○だから」「Bって××なんでしょ?」のように、自分たちとは違う人をひとまとめにしていたら要注意だ。これは、前頭前野を働かせるチャンスを失っていることにもなる。単純なレッテル貼りを気持ちよく感じる裏側には、脳の弱さがあることに留意したい。
4つめは、「余裕を大切にする」ことである。前頭前野を働かせるには、脳に余裕がなければならない。この余裕を重視するなら、一般的に忍耐が必要なことは避けるべきだとされている。「満員電車での長時間の通勤」はその典型といえる。
正義中毒を乗り越えていくには、人を許せない自分や他者に対して、「人間だからしょうがない」と認めることが前提となる。そのうえで、メタ認知の習慣をつけていけば、自分とは異なるルールをもつ他者に対して寛容に接し、共感できるようになるはずだ。
一読のすすめ
著者は正義中毒から解放される最終的な方法として、あらゆる対立軸から抜け出し、何事も並列で考えることを挙げている。まずは相手の考えや感情をいったん受け止め、包み込んでみる。このシンプルな意識がいかに重要なのかに気づかされる。
正義中毒に陥ってしまう仕組みとその背景、そして正義中毒から自分を解放するためのヒントを知ることで、心穏やかに生きられる人がもっと増えるだろう。そして、世の中にはびこる分断を少しでも減らすことができるのではないだろうか。本書を読めば、そんな希望をもて、視界が開ける瞬間が訪れるにちがいない。
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